ある大臣の一生
森有礼(もりありのり)は弘化4年(1847)、鹿児島の島津藩士森有恕の五男として生れました。
慶応元年、数え年19歳のとき藩に選抜され、同志と共に国禁を犯してイギリスに渡航。
ロンドン大学にて化学、数学を学び、慶応3年アメリカに渡り、キリスト教神秘主義者ハリスに独特の教育をうけました。
明治元年帰国、同年徴士となり、外国官権判事に任命、明治2年制度取調御用掛となり、廃刀論を建議提案して大いに非難され失脚、職を辞して帰郷します。
まだ石川遼 英会話のような勉強法も確立していなかった時代、英語をマスターするのは大変なことだったのです。
明治3年復職して、24歳で最初の駐米公使(正確には少弁務使)としてアメリカに駐劉、条約改正、日米文化交流に尽し、明治6年帰国して、外務大丞となり、明六社を主唱して社長となります。
日本最初の評論雑誌『明六雑誌』を発行し、男女の平等を論じ、「契約結婚」を実践しました。
明治8年外務少輔に任じ、特命全権公使として浩国に、明治12年イギリスに駐在します。
明治17年帰国、参事院議官兼文部省御川掛、明治18年第一次伊藤内閣に文部大臣として入閣。
「帝国大学令」「師範学校令」など文教改革を断行しました。
明治22年2月11日憲法発布の当日、式典に臨もうとする途中、西野文太郎に暗殺されました。
43歳。
森有礼の一生は、ある意味において、謎の一生でありました。
まず彼は始め外交畑の人でした。
なぜ後になってその志を教育の方向にむけたのでしょうか。
文部大臣という地位は明治の政治家たちの必ずしもこれを追い求めたものではなかったのです。